祖父
少し前になりますが、祖父の遺品が母校に寄付されたようです。
たった一人の祖父
生真面目で、厳格だった祖父だったようで、よく祖父だけが家族の中で毎食一品多かった、なんて話を聞いてました。
自分が物心つく頃には長年勤めた商社の営業を退職し、引きこもりのように自由気ままな老後をおくっていました。
自由といえば聞こえはいいですが、引きこもりで、いつも真っ暗な部屋にこもり、好きな勉強をしているだけで、人と会うことも極端に嫌がっていた、今思えば変人のような祖父でした。
学校の成績表をもらうと、祖父の家に行き、(狭い家で、隣の部屋ですが)祖母がお伺いに行くために待たされて、お許しが出れば暗い部屋の中におそるおそる入って、2、3言葉を交わす、そんな記憶が鮮明にあったりします。
それでも、私の成長は気にしてくれていたようで、弾まない会話をした後は、必ず柱の前に立たされて、背丈を柱に刻むのが恒例でした。
それも、今思えば、不器用な祖父の愛情だったのかもしれません。
抱っこしてもらったり、一緒に遊んでもらったり、一緒に出かけた記憶もありませんが、唯一の祖父だったこともあり、今感じるほど特異な感情もなく、祖父とはそういうものだと思ってました。
好々爺
そんな祖父も、体は弱り、脳もやられていたようで、私が中学生の時に倒れます。
急に祖母から呼び出されて、ベッドから落ちたか何かで、慌てて向かい、戻そうとしますが、力をうまくいれることもできず、実質何もできなかったのを覚えています。
それから入院し、手術し、老人ホームに入ります。
脳の手術をしたこともあって、以前のような気難しさが消え、驚くような好々爺に変わったのは、今でも信じられないくらいの変わりようでした。
ホームの部屋に時々お見舞いに行くと、喜んで迎えてくれて、難しい会話はできる状態ではありませんでしたが、明らかに喜んでくれました。
なんども手術やらを乗り越えて、祖母の介護もあり、元気にしていましたが、私が大学生の時についに亡くなります。
葬儀の時に、葬儀場に泊まり、無性に悲しくなり、浴びるほど慣れない酒を飲んだのをよく覚えています。
遺品
前述の遺品ではありませんが、亡くなった後の遺品の片付けはいくらか私も手伝いました。
特に、私と似ていたのか、本が大好きで、山のようにあった蔵書を、1つ1つ選別し、私がもらえないものを叔父と古本屋に売りにいきました。
祖父は戦争中に慶応大学の学生で、戦争に行き、戦後また復学して卒業したという経歴だと聞いています。
戦争では海軍で、詳細はわかりませんが、生涯海軍の軍人だったことを誇りにもし、もしかしたら恨んでいたのかもしれません。
記事にもあるように、戦後シベリアに抑留され、長い間過酷な労働をし、手か足かを寒さでやられ、胸もやられ、時には地雷原の中を歩いて渡らされて、辛い思いをたくさんして帰還したようです。
祖父の蔵書は、興味のあったであろういくつかの分野に偏っていましたが、大部分は戦争関係の本でした。
おそらく、学術的興味だけでなく、あの戦争はなんだったんだろうか?自分は何をして、どこにいたのか?と、自分の体験した時代の真実が知りたかったように、私には思えます。
ずいぶん私も手放しましたが、それでもそのうちのいくつかは、今でも大切に持っています。
祖父の本を見ると、その几帳面さが一目でわかるようになっています。
いつ、どこで、いくらでその本を買ったのかが、必ず鉛筆で本の裏表紙に記載されています。
形見というほどではありませんが、せめて自分のところまでは、その祖父の気持ちの欠片と一緒に持ち続けたいと思っています。
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今、祖父の孫は6人いますが、きちんと祖父のことを覚えているのは私といとこの2人くらいでしょうし、少しでもエピソードを話せるのはたぶん私くらいなものです。
残念ではありますが、そうやって人は忘れられて、新しい世代にうつっていくような気もします。
それでも、何かに残すことはきっといいことなので、改めて書いてみました。